2003年

12月29日(第50回)

作品: 顧共鳴の作品
読書会のあと、忘年会(新宿「東順永」、二次会はゴールデン街「ナベさん」)。遠方からE君も来てくれ、盛況でした。

12月15日(第49回)

作品:田環の作品

12月1日(第48回)

作品:左蒂、楊絮の諸散文
 「満洲国」作家も一通りのレポートが大詰め。本日は梅娘や呉瑛、但テイにつづく女性作家をまとめてレポート。山丁の妻、左蒂や、歌手としても人気のあった楊絮たちの文学活動にふれる。近代女性としての目覚め(自立、マスメディア、アイドル性…)という視点から楊絮などを分析すると面白いかも。
 読書会の成果を形にするため、これから下書き段階に入る予定。何かをやり遂げたあとの本当のうまい酒ってのを、最近飲んでないねえ。じっと手を見る。彦さん、がんばろう!

11月26日(第47回)


作品:呉郎の諸散文

ひきつづき呉郎の散文を中心にレポート。酒にまつわる失敗談や、故郷吉林のこと、「新京」での防空演習などを滑稽味たっぷりに綴っている。呉郎といえば文芸評論だが、こうしたエッセイをもっと知りたくなってきた。
 生業劇場がゴタゴタしていてなかなか集まれず、一ヶ月もたってしまった。休憩も兼ねて、こんど皆で、文芸坐へ勝新主演の「兵隊やくざ」シリーズを見に行きましょう。中国東北を舞台に日本軍隊の内部を描いてます。

10月22日(第46回)

 作品:陳テイの諸作品
    呉郎の経歴

 関沫南と同じく、ハルピンで作品を発表し、「満洲国」官憲に逮捕され日本敗戦まで獄につながれた陳テイ。34年前後に脱出した“流亡作家”たちの後に来る、彼らによるハルピンの文学活動は興味深い。
 評論家として活躍した呉郎(季守仁)による文学活動と「満洲国」倒壊後の選択について、見る。
 夏休み後、初めての読書会となり、これまでに見てきた作家・作品の確認も。雑誌分析のフォームについても話す。

8月11日(第45回)

 作品:韋長明「筍」
    関沫南「在夜店中」

 若手作家、韋長明の中篇は、父母の世代の旧弊を脱しようと悩む息子を描く。引き続きレポートをすることに。関沫南はハルピンで活躍した作家で、堅実な思考と社会への眼とがうかがえる。
 本日は夏休み前、最後の読書会とす。暑くない夏に喫茶店は冷房が効き、場所を変えてお燗の老酒。なにか変だ。東北資料収集に出かけたいが、今年はいろいろあって無理かも。

7月14日(第44回)

 作品:王秋蛍「失群者」

 島魂、渡沙、石軍ら響涛社の詩人による作品のまとめを行ったあと、引き続き王秋蛍の他の作品と評論について見ていく。「現実」と「社会」を見つめよと叫び、他の文学者に対して攻撃的な彼の根の部分に迫る必要あり。本日の報告は、一作品だけでなくその周辺にも目を配り、今後の読書会のあり方を刺激した内容だった。
 秋の定例研究会(03年9月13日)の計画についても話す。

6月23日(第43回)

 作品:島魂「孤苦的我」、渡沙「雄潮」
    王秋蛍「失群者」

 引き続き、響濤社の詩人たちの作品にふれる。五四新文学と同じく、批判対象として「礼教」が見えるなど、興味深し。植民地に生まれた詩をどう読むのか、象徴や暗示といった領海を巻き込んで、この問題は根深いと思う。
 短編小説「失群者」ははっきりとは述べられていないが、特務機関に取り込まれたスパイとして、運動の仲間を売りつづける青年が主人公。ハードボイルド+ミステリー。一人の娼婦との心の交流と懊悩、彼の身の破滅を乾いた筆致で刻みつける名篇だ。政治的文脈は別として、ワイダの「灰とダイヤモンド」が思い浮かぶ。これまで読んできたのとはちがう格調が香るテクストなので、さらに討論したい。

6月9日(第42回)

 作家:島魂、夷夫、渡沙

 「満洲国」成立後も「関東州」として区別された植民地の中心都市、大連。五四新文化運動に影響された20年代の作家たちの「後輩」として『泰東日報』に登場した上記の作家たちは、大連で独自の活動を見せた後、「満洲国」内で有名になる者やその後の経歴が不詳の者などに分かれる。大連特有の都市文化に育まれた文学活動を跡づけていきたい。
 本日はアメリカのイリノイ州立大学院生で、満映に興味を持つ方と交流する。研究会のネットワークを海外にも広げる夢を見つつ(見過ぎ?)、ビール。

5月26日(第41回)

 作品:辛実「春秋」

 かつて取り上げた詩人の杜白雨と吉林一中で同級、そろって日本に留学し、帰国後は脚本家、張英華として満映に勤める辛実。『芸文志』同人。1943年、後期『芸文志』に載せた脚本「遙遠的風沙」がもとで「満洲国」首都警察に捕まる。ポスト満映の共産党と国民党とによる移管闘争など、「満洲国」後の情況にも絡む興味深い人物。
 本日は作品の中身まで踏み込めず、次回にまわすことに。ほかに秋の第五回定例会(9月13日、土曜を予定)について話す。

5月12日(第40回)

 作品:梅娘「旅」、成絃『青色詩鈔』

 「旅」:「夫を殺して愛人と逃亡中」という噂される女性と乗り合わせた語り手が、それらしき男女を見つけてあれこれ妄想を膨らませる話。
 以前読んだ同じ作者の「僑民」と設定が似ている。描写・展開の巧みさと結末の意外性、また女性から見た「蕩婦」の意味などについて話す。
 『青色詩鈔』:1933年、当時の奉天で近代詩に目覚めた青年たちが作った副刊『冷霧』。そこで中心人物だった成絃の詩は自然(四季や黄昏など、人間に身近なもの)を歌ったものが多い。
 先に読んだ外文や冷歌とちがい、伝統的な中国語空間を感じさせない作風にふれる。個人主義的と批判された『冷霧』詩人(ほかに金音、姜霊非ら)を養護する爵青(彼も同人だった)の評論も読む。
 本日は参加できない石田君が事前にメイルでレジュメをくれ(「旅」)、それをネット討論した上で、集まった。MBKも次世代新型会合に向けて漕ぎ出した? また本日は「満洲国」の文学状況に興味を持っている埼玉大の院生も参加、終了後さっそく「北京亭」で飲む。白酒までは手が伸びなかったが、炭酸でゆっくり。若い研究者を広げたい。

4月28日(第39回)

 作品:杜白雨『新しき感情』、外文「鋳剣」ほか

 『新しき感情』:杜白雨が1935-39年に日本に留学していたときに出した日本語詩集。社会階級を意識した内容の表現を日本語でもって格闘する跡がみられるが、完成度から言うと、つたなさも否めない。杜白雨はこの詩集のこともあって、当時の特効警察に捕まり、中国東北へと強制送還となる。「満洲国」で詩作と満映での脚本創作のあと北京へ。東京・「満洲国」・日本占領下の北京という三つのトポスが、それぞれ彼にとって何を意味するのか、が 興味深い。
 「鋳剣」ほか:「満洲国」の詩壇でもめずらしく、歴史に取材した長編叙事詩で知られた外文。彼の「鋳剣」は戦国時代の呉を舞台とし、関連の史話を長詩に仕立て変えている。魯迅「鋳剣」などと比較。他の短詩や芸文志同人での座談会でふれられる彼の創作態度について、話し合う。

3月24日(第38回)

 作品:辛嘉の随筆集『草梗集』

 著者は古丁の友人で文芸誌『明明』『芸文志』の創刊にも加わった文芸評論家、エッセイスト。北京生まれ、北京の大学卒、「満洲国」で文芸・編集活動し、1941年ごろ北京に出る(帰る)。
 本集は「満洲国」内旅行記や日本旅行記(武者小路や志賀を訪問)、中国人作家(五四期の、あるいは「満洲国」内の)紹介、長春の幼年時代へのノスタルジーなど多岐にわたる。芸文志同人ほかの作品に対する批評眼や、「満洲国」を脱け出た外の世界(北京回想、外国文学、「新京」になる前の長春・・・)への眼線には、うまいバランスがあるような気がする。
 今日の喫茶店はコーヒー一杯で長居でき、静かな環境でもあった。作家作品リスト刊行に向けての話など。

3月17日(第37回)

 作品:何醴徴「剪菜」ほか、冷歌「船廠」

 「剪菜」:馬六爺の雇われ農婦たちが、白菜の選別作業を行なっている。生活のためにその賃金を頼む者もいるが、馬はこまかい金がないのを理由に賃金を払わない。白菜を300本刈って1角の賃金、米代は1角。当時の生活事情を記録する眼。
 「船廠」:詩人がかつて青春期を過ごした古都、吉林の地理風土を歌う詩。別の詩「古城」では古い城壁を取り除き、新しい道を切り開こうと述べるが、「船廠」では古い歴史と外観を持つ街に対して愛惜の念を抱き、それを破壊する近代アイテムに批判的。相反するこのブレが何かを意味している。
 久々に場所を変えたはいいが、環境うるさし。彦さんよ、麦当労は頂けねえぜ!

3月3日(第36回)

 作品:梁山丁「拓荒者」

  東北の自然豊かな大地を老人とその息子が旅している。息子は若者の情熱と好奇心から故郷を飛び出して、都会に暮らしている。老人はそんな息子を祖先の切り開いてきた大地にもういちど呼び戻そうと苦心しているのだ・・・
 のち『芸文志』派の支柱となる古丁と対立した、「郷土文学」論を山丁自身が実践したような作品。洪水や野生の動物たちに被害をこうむりつつ逞しく生きる開拓民と東北の自然への礼讃が見える。苦しむ農民を描くことで「抗日」を表象していると当時の植民地権力が疑った作品だが、今日ではその「抗日」がゆえに価値あるテクストと中国では評価される。そのような単一性だけでなく、複数のコード(ヒトの生と死、自然と人間、自然と近代文明・・・)による総合表象の空間としても読める可能性について、メンバーと話す。大きな問題だ。
  読書会のあと久々の飲み。メールだけでは話せない問題をゆっくりと・・・

2月23日(第35回)

 作品:勵行建「桃色輪郭」

  医者の語り手、馬(作家の本名と同じ)は、久しぶりに友人の妻、玉英と再会。馬と彼女の夫はハルピンのカジノで知り合い交友関係にあったが、夫は玉英を娼婦として働かせ自分は遊びや窃盗に明け暮れるような人物だった。その夫が死に、人間として立ち直りたいという玉英を励ます馬。
  ☆以前読んだ也麗「三人」とよく似た筋だが、男の犠牲となる女性像+男に救われる女性像という設定がどうもウソ臭くもある。「人間が堕落するのは社会のせいか、それともその人間個人のせいか」と問う玉英に、馬は「社会を改造しかつ社会に適応する人間になれ」と何とも矛盾するアドヴァイスを。いったいどうせえ、ゆうねんっ?! 「社会」と「個人」を対立させて問題提起しているが、この「社会」なるものは、果たして「植民地社会」と関係があるのかどうか、などを議論。たぶんない気が。だがよくある近代的なヌルい、しかしある意味普遍的なテーマも、当時生み出されていたということ。
  本日は一橋大の張愛玲と梅娘を比較検討したいという院生にも参加してもらった。謝謝!これからもよろしくお願いします。

1月27日(第34回)

 対象:前期『芸文志』(1939-40年)

 「満洲国」期の代表的な中国語文芸誌(全3期)を考察。目次、編集役員、広告といった面からこの雑誌の持つネットワークや趣旨に近づく。同じ時期の文芸誌『文選』と比較した性格についても話す。
 当日は、川島芳子の資料を探索する都立大生と、「満映」時期の甘粕正彦について 卒論を書く早大生にも参加してもらった。昨年最後の読書会から言うと1ヶ月が経ってしまった。気持ちを入れ替えて、また出発。

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