第5回定例研究会報告

第5回定例研究会は2003年9月13日(土)に、無事終了しました。 ご多忙のなかご出席下さった方々に、感謝申し上げます。(橋本雄一、大久保明男、石田卓生)

当日のタイムテーブル

 

明治学院大学・白金校舎本館9階92会議室にて、午後1時より

各発表要旨とおもな質問・意見

※以下の発表内容と質疑応答の要約は、大久保明男と橋本雄一がおこなった。


「中国残留日本人」の形成に関する一考察――集団引揚を中心に

南誠(京都大学大学院博士課程)


 現在「中国残留日本人」に対し必然論的な戦争被害者と結果論的な棄民という二つの錯綜している見方があるが、どちらも彼(女)らの歴史的な形成要因を包括的にとらえていない。戦争被害者などの概念は、戦後の政治空間においてこそ「残留日本人」が生み出されたという近い歴史の事実を、「戦争」というメモリアルワードによって覆い隠してしまう。むしろ近い歴史にこそ根があるとする発表者の視点は、それがゆえに「残留日本人」問題は今日の問題であることをあらためて明るみにした。
 まず彼(女)らの「中国残留」を決定的にしたのは後期集団引揚(1953-58)の終了であると指摘する。それをもたらした原因は、戦後日中両国間の政治軋轢のなかで生じた一連の問題(国交回復、自由往来、対中不談話政策)と、日本三団体間および外務省との軋轢、留守家族への責任転嫁、日本の社会と日本の親族による「帰国者」排除の現象、未帰還者に対する曖昧な「死亡宣告」の政策であるとし、これらの要素について外交、社会、行政など広範囲に渡って考察した。なお、前史としての「満洲」移民事業、終戦直後の「残留孤児」の類型、前期集団引揚についても簡単に紹介した。

質疑
  1. 1959年に3万人余りいた未帰還者が5年後に6000人余りに急減したのは、「戦時死亡宣告」と厚生省による「自己意思残留者」の認定によるものか?
  2. 「死亡宣告」は誰が何を根拠に誰に対して出すのか?
  3. 満洲移民の達成率が1939年から急落したのはなぜか?(=36年以降の満州移民数が増加したというが、しかし、統計では、達成率は減っているのではないか。増加しているというのは何を指すか。(こういう質問だったと思いますが))
  4. 戦後日本人の里帰りにかかる費用の計算は何を根拠に?
応答
  1. はい。 
  2. 厚生省が当事者家族に対しておこなう。確たる根拠はない。
  3. 「満洲」移民事業は国策として採用され、この年から本格的に取り組みはじめた。達成率は急落しているが、移民総数は急増している。(=達成率ではなく、移民総数の増加を指している)
  4. 中国側資料の不足もあって、その根拠は今のところ不明。ただ、船などは日本側によるものであった。

「満洲国」成立前後の大連における中国側文化活動――1920年代後半の中文雑誌『新文化』〈『青年翼』〉と日文雑誌『満蒙』から

橋本雄一(千葉大学教員)


 近代中国東北における文化問題を考えるとき、「満洲国」という枠組みが日中双方の研究のなかで自明のものとしてあるが、それ以前の文化様相とのつながりは今一つ定かでない。「関東州」とくに大連という植民都市にあった中国人側の文化活動は堅牢化していく植民地システムのなかでどう在ったのかを問題とした。
 傅立魚(中国語紙『泰東日報』編集長、大連中華青年会会長)を中心に、国民党系愛国思想+共産主義思想というナショナリズムが、部分的に日本帝国主義への反目とも結びつきながら1920年代の大連に花開いたことを紹介。そこには中華民国の中央演劇界や文学界とのネットワークも見える。他方でそのような動きが、異文化資料と植民地経営スキルの蓄積を文化的に支えた日本側文化活動(満蒙文化協会)とパイプを持っていたという複雑な事実を指摘。日本側メディア(とくにラジオ)は異民族「発見」の行為に精を出し、情勢は「満洲国」成立へと向かうなかで、大連特有の中国側文化活動は日本側権力から弾圧を受け始める。そこと「満洲国」との断裂を繋がりとしてとらえる可能性の検証は、今後の課題であるとした。

質疑
  1. 『泰東日報』の発刊は関東庁と関わりがあったのか?
  2. 『泰東日報』紙面の文体は文語文か口語文か?
  3. 大連はもとより南方中国との文化的なつながりが強かったが、1920年代後半の東北政治動乱期を経て、どのように変わったのか。また「満洲国」のなかにどのように引き込まれていたのか?
  4. 20年代の大連に住んでいた日本人は中国文化(文学)に関心を持ち、「親善」はもとから『満蒙』の姿勢ではなかったのか?
応答
  1. あることはあるが、基本的に独立したメディアとして存在していた。植民者の宣伝機関の性格がある一方で中国新文学の発展に貢献した面もある。
  2. いまの中国語の口語体とは違うが、昔ほどの文語文でもなかった。
  3. 20年代後半に「親善」や「提携」といった言葉が『満蒙』の誌面に多く見られるようになった感がある。しかし、『満蒙』などに掲載された個々の作品にもっと照準を合わせ、さらに詳細に検証する必要がある。

建国大学にみられる民族協和の諸相

宮沢恵理子(国際基督教大学教員)


 「満洲国」の中堅官吏養成を目的とする文科系最高学府として、関東軍と「満洲国」政府によって創設された建国大学。創設の背景から教育実践、組織的変質、閉学までを紹介したうえで、「満洲国」の「民族協和」というコンテクストから大学の中身を考察した。
 ひとくちに「建国大学」と言っても、学校組織としての大学、学生から見た学校組織と学校生活(しかも入学時期によって相当ぶれのある学校体験)、戦後の日本人同窓会がはぐくんできた記憶のなかの大学といった多面層があることを指摘、なかでも同窓会への聞き書き調査をとおして得た学生生活事情を詳述した。学生寮における多民族共同生活が、とくに日本人学生には異民族学生のナショナリズムとの衝突から「建国精神イデオロギー」に対する批判意識を芽生えさせ、中国人学生には日本的慣例の押しつけが逆に民族的アイデンティティーを自覚させたことを指摘。
 日本人学生個々人のそのような意識の可能性が、学校としての「民族協和」へと普遍的に実践される方途に欠け、大学全体としてはやはり「満洲国」という日本人による政治空間のなかで限界を持ったと結論した。

質疑
  1. 古丁が建大の非常勤を務めたとの記録はあるが、実際担当した中国古典文学の科目は建大のカリキュラムにはない。なぜか? 
  2. ウルトムトという学生のことについて教えてほしい。 
  3. 森崎湊を建大の同窓生たちがどのように見ているのか? 
  4. 建大学生は戦後、就職などの面で不遇だったか? 
  5. 作田の建国精神イデオロギーには「民族協和」も含意されていたのではないか? 
  6. 山根氏の著作は建大を日本侵略の手先と位置づけているが、それについてどうか?
応答
  1. 正規の授業ではなく、座談会などの形式だったかもしれない。 
  2. 彼は一期生で、『虹色のトロツキー』のモデルにもなったが、建大卒業後の状況は不明。
  3. 彼は優秀な学生だったが、くせ者で、入学時期はちょうど建大変質期だったので、期待が裏切られ、絶望したのだろう。ただ、彼の自決は建大を出てから二年後に起こったことで、『遺書』と直接結びつかないのではないか。実際、ほかの原因もあったようだ。
  4. 3期生以後は大学を入り直したものが多い。シベリアに抑留された者もいるし、学閥のない大学だから就職などで苦労したようだ。
  5. 「民族協和」を包含しながらも作田がそれを独自に解釈し、建国精神(王道=皇道など)のなかに取り入れた。
  6. そういう見方は多いが、実際、建大はできたあと、関東軍にも、満洲国政府にもほったらかしにされて、勝手にやっていたところも多々あるようだ。だからこそ、学生たちはいろんな問題について考える余裕ができたと思う。
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