第6回定例研究会のご報告

2004年3月20日(土)13時半より、明治学院大学白金校舎、本館9階92会議室にて行ないました。
ご発表下さったお二方、ご参加下さった方々、ありがとうございました。

当日のタイムテーブル

明治学院大学・白金校舎本館9階92会議室にて、午後1時半より
  1. 「満洲国」期の牛島春子作品をよむ …許静(千葉大学大学院修士課程):14時から  
  2. 秋原勝二氏と『作文』の紹介 …西原和海(文芸評論家):15時半から
  3. 「望郷」について―そして『作文』のことなど― …秋原勝二(『作文』同人):15時40分から  
  4. 研究会からの報告(活動報告、会計報告など)
 ※18時すぎからJR品川駅近くの「藏の桜」にて懇親会を行いました。

研究発表と講演の要旨など


許報告の要旨(文責:橋本雄一)

「満洲国」期における牛島春子の作品を読む

許静(千葉大学大学院文学研究科)


 2003年度、千葉大学文学研究科に提出された修士論文の一部をクローズアップして報告した。まず牛島春子作品にかんする先行研究の紹介をおこない、それらの対象はもっぱら短編小説「祝といふ男」(『満州新聞』1940年。翌年の下半期芥川賞候補作)であり、そのほかの作品についてはほとんど考察されてこなかったことを指摘。また作品をとりまく当時の「満洲国」の社会的、歴史的な背景およびそこに現れた植民地性への視点が今後加わるべきだと主張した。
 そのうえで、本報告では「王属官」(『大新京日報』1937年)と「福寿草」(『中央公論』1942年)という二つの短編小説を取りあげた。「王属官」では「満洲国」の建国理想と夢が織り込まれ、作者がそれに共鳴するプロパガンダ小説と読める一方で、その地に暮らす中国農民たちの意識と「満洲国」が唱えた政治理念とが齟齬をきたしていることも読みとれる、と指摘。
 「満洲国」の「建国十周年」という祝賀ムードにのって、世に出た「福寿草」には、時局の要請にこたえる側面もある一方で、「在満」日本人の故郷に対する郷愁や祖国への思いを表出してもいる。さらに、「匪賊」の襲撃を撃退することがテーマである本作は「匪賊」のことも正面から描き、そこには自民族へのまなざしのみならず、レジスタンス側へのまなざしもうかがえる、と分析した。
 上記二作品を通して見えてくるのは、語り手による「支配者」のまなざしにもかかわらず、「満洲国」が唱える「民族協和」というスローガンの裏側にある民族的差異や、建国理念の裏にある現実社会の陰影部をきちんと押さえる姿勢である。ただし、牛島の「満洲国」期の文学には、「満洲国」が成り立った経緯、つまり帝国日本の植民地主義という起源とそこから派生する問題を、自分自身の立ち位置と絡めて問い直すところにまでは至っていない、と結論した。

参加者からの質問



秋原講演:「望郷」について―そして『作文』のことなど― の補助資料とお話の要旨


講演の要旨(文責:橋本雄一)

「望郷」について―そして『作文』のことなど― 

 

秋原勝二(『作文』同人)


 三つの「満洲」という時間的区分にそくして話をした。すなわち子供の眼から見た「満洲」(「満洲国」の前)、「満洲国」成立後の見聞、戦後引き揚げてから知った「満洲」という三つである。
 1920年、七歳のとき兄に連れられて朝鮮半島経由で姉のいる奉天(いまの瀋陽)へ。その後、遼陽ふたたび奉天、安東(いまの丹東)と住まいを変えるなかで眼にした中国人(日本人を乗せて走る車夫、「対華二十一個条」の恨みで石を投げてきた子供など)について紹介。安東の中心地に近い山際の土崖の下に、生まれたばかりの赤ん坊の遺骸が捨てられ折り重なっている光景には、「中国の人が苦しんでいる」という感を強くしたという。大連以外の街(満鉄沿線付属地)における日本人の生活感覚(娯楽としては蓄音機による浪花節、尺八の音色や巡回映画などしかなく、伝達情報が少なかった)についてはとくに詳しくふれ、「内地を離れた寂しさや心細さ」という感覚が主流であったことを紹介した。
 満鉄育成学校を卒業後、1930年に就職した南満州鉄道株式会社(通称、満鉄)本社における、当時の社員の共通意識を次に紹介した。それは「満洲」のために何かしたいというよりも、「お金をためて早く日本に帰りたい。日本に帰るのだけが楽しみ。いまは辛抱しなければならない」という現実的なものだった。(☆そこには帝国主義日本による植民地経営が進むなかで「取り残された」日本人のあり様の象徴性が見えるのかもしれない――本概括者)
 他方で当時「満洲」にいた日本人は、「関東州の租借は九十九年といっても、すぐ更新され、永久にお借りするのだ」と信じこむような、あくまでも植民地を経営する日本人の心性も持たされていたことを指摘した。
 「満洲国」成立のときには軍閥に苦しむ中国人を目の当たりにし、問題を解決する新しい中国の行政府ができるものとばかり思い、「満洲国」なるものができたことに驚いた、と当時の心境を説明。「満洲国」成立に向けて画策した関東軍や政治家とは別の「日本人」の感覚、意識、行為が「満洲」には共存していた事実も指摘した。自身のことでは、1945年9月に満鉄就職十五年になるはずだったので、退職して「退職金をもらい、妻子にそれを持たせて旅順か大連の安全地帯に定住させ、自分はひとりになって「満洲国」の正しい前途のために文学活動を始めよう」とひそかに企んでいたが、敗戦で立ち消えとなった。
 今のほとんどの研究者は知らないが「満洲国」倒壊直前に国籍法が公布されたと聞いている。日本への望郷は断ち切って「満洲に永住したい」と思っていたが、「侵略ではなく、中国人と共に生きるにはどうしたらよいのか」という問題に最後まで悩んだ。しかしそれを実現しないままに、おかしな国が歩きだし、そして日本敗戦となり、日本に帰ることとなった、と「満洲」における自分史を概括した。
 1937年ごろ自身が大連協和会館で聴いた小林秀雄の講演「歴史について」に触発されて、「歴史とは事実と記憶、そして記録である」という考えを悟った。事実は消え、記憶も記憶する人がいなくなれば消える。最後に残るのは記録である。過去の事実を研究するさいに、事実はいかにつかみにくいかということを踏まえて、皆さんも問題に深く迫っていただきたい、と締めくくった。
 (☆締めくくりの言葉の意味は、事実は刻々と消えていき存在しない。手柄や痛い目にあった記録はたくさんあるが、自分の真の事実を記録し得る人間は少ない。そういうなかで事実に迫るのは如何に難しいかということをおっしゃられた。「満洲国」文学研究会は、この言葉に寄りそいつつ、さらに進めて、事実を記録することが困難だった他者(中国人その他の民族)のあり方についても考えていきたいと考える。そのような態度こそが、これから植民地の問題を考えていく者のあるべき姿勢だろう――本概括者)

参加者からの質問

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