2005年3月19日(土)、専修大学神田校舎2号館208教室にて行ないました。
会場を手配下さった前川先生、ありがとうございました。
(概要)
石森延男(1897〜1987)についての研究は、おもにその児童文学作品をめぐって行われてきた。しかし「満洲」の地にわたり、そこでの活動を通して後年、公定教科書作成に加わる石森の肖像と仕事にはいまだ十分な光が当てられていない。本報告は、「満洲」における活動(1926〜39)とその著作について紹介がなされ、今後の石森研究にたいして一つの視点を提示した。
石森が32年に大連民生署地方課学務係として監修にあたった「在満」日本児童の学校における副読本シリーズ「満洲文庫」などや、39年3月から5月にかけて『満洲日日新聞』夕刊に連載された長篇児童小説「もんくふぉん」(同年8月、新潮社による単行本化の際に「咲きだす少年群」と改題)については、とくに詳しく紹介した。そのさい、詳細な石森延男年譜と著作目録が示され、従来の年譜における誤りなどを指摘した。
「満洲」という政治と地理、あるいは「中国人」や「中国文化」というポートレートを、「現地」にあって紹介者たるべく扱った彼の働きは、興味深い。また児童に対するそのような石森の「啓蒙」活動の経験は、帝国日本に帰国後には、敗戦までの官製「国語」教科書を編纂するといった帝国規定に貢献する文化政治的アリーナへと開かれていく。そのいわば東北アジア遍歴は、宗主国にとっての植民地の関係をも投影している。石森延男と「満洲」という視点は、もっと注目されてよいだろう。
本報告では「満洲文庫」などの原本を回覧することで、石森のそうした遍歴に、参加者はより興味深く接することができた。
(概要)
日本敗戦までの武田泰淳による翻訳作品について分析した。従来の武田泰淳研究にとって、戦後に発表されていく彼の創作と「中国」との濃厚な関係は明らかであるが、いわば小説家としての「前夜」である中国文学翻訳について言及されることは少ない。本報告は、武田の文学観と翻訳の密接な関係を明らかにするための問題提起をおこなったものである。
武田の翻訳業は「満洲事変」後に始まり、兵役と敗戦まぎわの上海における活動もふくめて、日中戦争勃発をへて「大東亜」のディスクールをかかげて帝国日本が戦線を拡大する時期と重なっている。そうした何らかの同時代的脈絡のなかで、武田が翻訳し発表した中国現代文学作品は多岐にわたり、報告では翻訳作品リストが提示された。なかでも今回は、蕭軍「愛すればこそ」、「妻なき男」(『現代支那文学全集 第4巻 愛すればこそ』、東成社、1940年、小田嶽夫と共訳)や、爵青「帰郷」(『文芸』、改造社、44年4月)といった東北植民地にゆかりの作家たちによる作品について議論が交わされた。
この時期の「翻訳」とは、当時の日本人が始めた戦争の「戦場」と「植民地」をめぐって生起する、「内側」と「外側」(異言語間、帝国と「異者」、「文化」間といった「二つの側」あるいは「二つ以上の側」……)の亀裂のひとつの指標だったと思われる。武田泰淳に関しても、断層と位階を生み出す社会としての「翻訳」と武田個人の「文」という相互の臨界点、あるいは溶解の濃度が求められるべきだろう。
なお、本報告の問題意識をさらに深める論考「武田泰淳における「翻訳」―中国東北関連作品の翻訳にふれつつ―」が、『野草』第76号(中国文芸研究会、2005年8月刊)に発表された。戦争末期の翻訳作業(「帰郷」)については、44年の中日文化協会への武田の就職と、それ以降の上海における活動とを追跡調査する必要を述べている。
(以上、ともに文責は橋本)